風そよぎ、水は流れる

思う事ありて言葉にし、未来へ
おやじ、本当にありがとう

久々のブログですが、この場を借りて私の父 日野一(ひのはじめ)が享年95歳という年齢で他界したことをお知らせいたします。また、ご縁のある皆様に葬儀のご案内をしなかったことについて、決して水臭いと思わないでください。ごく近しい身内だけで式を行いたいという家族の希望もあり、事後の報告となりましたこと、お詫びいたします。

 

父は、大正12年生まれで、この4月21日に95歳を迎えたばかりでした。約1年前に胃がんが発見され、余命1、2ヶ月と言われましたが、年齢も年齢だけに西洋医学による治療は行わないことを選び、ビワの葉温灸とビワ茶を行いながら相模原の姉の家で過ごしていました。この年齢にもかかわらず、パソコンで文章を書いたりユーチューブを見たりと、なかなかのハイテク好きで、孫からもらったiPadを使い8人の孫や私とラインで日々の情報交換をしていました。

 

ただ、2ヶ月前から体調がすぐれず、入院することになりました。しかし、ボケることなく頭がしっかりしているだけに、入院生活は退屈で、パソコンやiPadを病室に持ち込み、大好きな短歌や、サッカー観戦などで日々を過ごしていました。個室に入れたので、他の入院患者に迷惑をかけることはなかったのですが、夜遅くまでiPadやテレビに没頭し、看護婦さんから注意されていたとも聞いています。それほどまで元気だっただけに、なんだか父はまだまだ生き続けるのではないかと期待していました。

 

ちょうど父の誕生日の翌日、私は東京のアースデイイベントに参加することになり、合わせて相模原まで父の見舞いに行きました。孫たちも誕生日に会いに来てくれたと喜んでいた父は、95歳という目標をクリアできたと言っていましたが、一方でもういいだろうともポツリと漏らしました。そんな言葉通りに、1週間後の4月28日に、安らかに永眠しました。

 

父は島根県邑智郡瑞穂町(現邑南町)に生まれ、幼い頃から病弱だったそうです。そんな父は文学や芸術を愛し、浜田高等中学校(現県立浜田高校)に入学。在学中に脚気を患い、京都の親戚宅で療養生活を送りながら、早稲田大学文学部の校外生として国文学を学んだそうです。その後、病気が回復するも間もなく学徒出陣で、全滅した部隊として有名な陸軍暁部隊に入隊し、南方の戦地へ。

 

ただ、終戦間近にマラリアを患い、意識不明で最後の輸送船に乗せられ、広島の陸軍病院に運ばれたそうです。陸軍暁部隊での生存者は2名という話なので、その一人が父だったということでしょう。そして、父は原爆直下の陸軍第二病院に入院しましたが、8月6日の数日前に爆心地から2キロ離れた陸軍第一病院に移動させられたそうです。もし、この転院がなければ、原爆の灰と化したに違いありません。ここでも父は九死に一生を得たことになります。とはいえ、爆心地から2キロといえどもその被害は甚大で、多くの方が亡くなった中、父はかろうじてベッドの下に身を伏せていたことで、怪我一つ負いませんでした。

 

それというのも、その日の早朝に空襲警報が鳴り、病室から空を見上げた父は空高く飛ぶB29を見つけたそうです。通常の爆撃機ならば、それほどの高高度を飛ぶことがないため、偵察機として見られたためか、空襲警報は鳴り止んだと言います。人々がいつもの生活に戻る中、不思議にも父は胸騒ぎが収まらず、ベッドの下に身を隠したそうです。その瞬間、目のくらむ光が全てを包み込み、その後真っ暗な闇が訪れたと同時に、爆音とともに窓ガラスが弾けとび、ベッドの上に壁や天井が崩れ落ち、もはや終わりだと思ったそうです。

 

身動きできぬまま数分間を過ごす中で、父はやっと助かったと自覚し、恐る恐るベッドの下からから這い出すと、壁の向こうは一面の焼け野原。これまで見たことのないその光景に、とてつもない新型爆弾が落ちたのだと理解したそうです。

 

その後、父は数ヶ月間、瓦礫と死体の片付けに追われたそうです。その時の悲惨な情景を、父はあまり話したがりませんが、私には遺伝子に刻まれた記憶なのか、焼け跡に繰り広げられる地獄絵が目に浮かんでくるのです。

 

それはさておき、父は放射能のことなど知る由もなく、また知らされることもなく、しっかり被曝したわけです。ただ、不思議なことに、それからというもの病気一つしない丈夫な身体に変わったと父は言います。確かに、放射能は生命の遺伝子を傷つけることで、まれに生命力を活性化させる場合があることも確かな現象です。まさに父は、数々の死を乗り越えて、そんな強靭な生命力を手に入れたのかもしれません。

 

そして、我が日野家の末裔であった一人っ子の父は、姉と私の二人の子をもうけ、それぞれ合わせて8人の孫のおじいちゃんとして、家族に愛されました。

 

一時期、私が沼津の西浦という地で古民家に暮らしていた頃には、80歳からみかんの有機栽培を始め、自称「未完老人」と名付けてGAIAで販売するなど、ユニークな父でした。また、短歌では「一閑子」という歌名で朝日新聞にも度々入選するなど、その才能もなかなかのものだと家族の皆が認めています。そして何よりも酒をこよなく愛し、酒を美味しく飲むために健康に気を配り、労働に勤しみ、胃がんと宣告された後も(医者も許可した上で)、孫たちと一緒に正月の酒を楽しむという豪傑でした。

 

そんな父が逝ったことは寂しいことですが、決して悲しくはありません。95歳という人生を最後まで楽しみ、全うし、皆に愛された日野一という父を、誇りに思い、そして感謝にたえません。

 

おやじ、本当にありがとう

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